



浄土真宗の教え
Teachings of Jodo Shinshu
煩悩に振り回される私たちと、阿弥陀仏の本願
親鸞聖人は、その生涯において、真実とは何かを求め続けられました。その結果、人間の真実の姿とは、煩悩に振り回されている愚かなありさまでしかないと気づかれたのです。
仏の真実に向かい合った私自身のありさまは、自己中心のあり方から離れられず、まさに 「愚悪」としかいいようのない姿であったのです。
しかしながら、その愚かな私たちを救うために、建てられた願いが阿弥陀仏の本願(第十八願)です。それは、阿弥陀仏が「われを信じ、わが名をとなえるも のを必ず仏にするぞ」と誓われた願いであります。
浄土真宗の教えは、煩悩からも離れられない私たちが阿弥陀仏のはたらき(南無阿弥陀仏)を信じお念仏をして浄土に往生し仏となることを明らかにしているのです。
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お釈迦さまは、誕生と同時に七歩あゆんで、右手で天を、左手で地を指して「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)とおっしゃったと伝えられています。
この言葉は、他と比べてただ私こそが尊いのだということではなくて、この身体を持って生まれてきた私が尊いように、この世の中で生きとし生けるものは全てが等しく尊いのだということを意味しています。
お釈迦さまのいう「唯我独尊」とは、いただいたかけがいのない命を、お互いが思いやり、尊んで生きることを教えてくれているのです。
お釈迦さまがお生まれになった4月8日は、釈迦誕生をお祝いする「灌仏会(かんぶつえ)」(花まつり)が大切な仏教行事として執り行われています。
現在のネパールのカピラヴァストゥという国の城主である父シュッドーダナ、母マーヤーとの間に、王族としてお生まれになったお釈迦さまは、王宮の中で何不自由のない生活を送っていました。
16歳の時にヤショーダラ妃と結婚をし、ラーフラという子を授かりました。結婚をして家族に恵まれ、誰もがうらやむような生活をしていましたが、お釈迦さまはこの頃から思索にふけり、深く人生の問題に悩むようになります。
当時のインドでは、伝統的な哲学であるウパニシャッド哲学に対して、六人の思想家達の新しい哲学(六師外道)や、ジャイナ教など、様々な思想が展開している時でした。社会的にも大国や多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにありました。
このような時代にあって、世の無常を感じ、釈迦は華やかな生活を捨て、出家の道を志すようになりました。
ヤショーダラ妃との間に子を授かった時、お釈迦さまは「ラーフラが生まれた」と叫びました。ラーフラとは、サンスクリット語で「妨げ」という意味で、恩愛の絆が増えると出家の妨げになるという意味で言われたことが、そのまま命名の由来となったといいます。
お釈迦さまが出家される一番のきっかけになった出来事は、「四門出遊」という有名なエピソードとなって伝えられています。
ある時、お釈迦さまがカピラ城の東門から出た時に、腰を曲げてよろよろと歩く人に会い、「あれは何か?」と従者にお聞きになりました。従者は「老人です」と答え、その時、お釈迦さまは誰でもが年を取り、やがては老人になっていくことを知ります。
また南門より出た時に病人に会い、西門を出る時に死者の葬列に会い、世の中が無常であること、生あるが故に老も病も死もある、いわゆる生老病死の苦しみがあることを知ります。
そしてある日、北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦から離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったといいます。
裕福な生活を送っていたお釈迦さまは、一歩お城の外に出て初めて老・病・死の無常のことわりを目の前にして、人ごととせず、自分のこととして深く悩み、苦悩されたのでした。そして29歳のとき、夜半に王宮を抜け出し、出家をされたのでした。
出家をされたお釈迦さまは、いろいろな師を訪ねて回りましが、どれも悟りを得られる道ではないとして、6年の間、あらゆる苦行を積みました。
絶食などをして難行苦行を行い、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行いました。
しかし、一向に人生の苦を根本的に取り除く糸口が見つからないまま時が過ぎ、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解し、やがて難行苦行の道を捨てることとなりました。
