お釈迦さまのご生涯

Buddha Life Story

苦しみの根本的な解決を追求したご生涯

お釈迦様がお生まれになった頃のインドは、戦乱に明け暮れ、ガンジス川流域に群立した大小の王国が統一され、やがてアショカ王によるインド統一帝国の成立へと向かう過渡期でありました。王族として生まれ、何不自由のない生活を送っていたお釈迦様は「人生は苦である」と、地位も家族も捨て、苦しみの根本的な解決を求めてただひとり苦行の道を歩まれ、ついにこの世の真理を見抜かれました。そして、お釈迦様はその智恵と慈悲の心でひとりひとりの苦しみに応じた教えを説かれました。

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お釈迦様は今から2500年前にネパールの南部とインドの国境付近にあるルンビニーの園でお生まれになりました。本名はゴータマ・シッダールタであり、釈迦族の王子として育ちました。幼少期から聡明で、学問や武芸に優れた才能を示していました。

お釈迦さまは、誕生と同時に七歩あゆんで、右手で天を、左手で地を指して「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)とおっしゃったと伝えられています。

この言葉は、他と比べてただ私こそが尊いのだということではなくて、この身体を持って生まれてきた私が尊いように、この世の中で生きとし生けるものは全てが等しく尊いのだということを意味しています。

お釈迦さまのいう「唯我独尊」とは、いただいたかけがいのない命を、お互いが思いやり、尊んで生きることを教えてくれているのです。

お釈迦さまがお生まれになった4月8日は、釈迦誕生をお祝いする「灌仏会(かんぶつえ)」(花まつり)が大切な仏教行事として執り行われています。

現在のネパールのカピラヴァストゥという国の城主である父シュッドーダナ、母マーヤーとの間に、王族としてお生まれになったお釈迦さまは、王宮の中で何不自由のない生活を送っていました。

16歳の時にヤショーダラ妃と結婚をし、ラーフラという子を授かりました。結婚をして家族に恵まれ、誰もがうらやむような生活をしていましたが、お釈迦さまはこの頃から思索にふけり、深く人生の問題に悩むようになります。

当時のインドでは、伝統的な哲学であるウパニシャッド哲学に対して、六人の思想家達の新しい哲学(六師外道)や、ジャイナ教など、様々な思想が展開している時でした。社会的にも大国や多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにありました。

このような時代にあって、世の無常を感じ、釈迦は華やかな生活を捨て、出家の道を志すようになりました。

ヤショーダラ妃との間に子を授かった時、お釈迦さまは「ラーフラが生まれた」と叫びました。ラーフラとは、サンスクリット語で「妨げ」という意味で、恩愛の絆が増えると出家の妨げになるという意味で言われたことが、そのまま命名の由来となったといいます。

お釈迦さまが出家される一番のきっかけになった出来事は、「四門出遊」という有名なエピソードとなって伝えられています。

ある時、お釈迦さまがカピラ城の東門から出た時に、腰を曲げてよろよろと歩く人に会い、「あれは何か?」と従者にお聞きになりました。従者は「老人です」と答え、その時、お釈迦さまは誰でもが年を取り、やがては老人になっていくことを知ります。

また南門より出た時に病人に会い、西門を出る時に死者の葬列に会い、世の中が無常であること、生あるが故に老も病も死もある、いわゆる生老病死の苦しみがあることを知ります。

そしてある日、北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦から離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったといいます。

裕福な生活を送っていたお釈迦さまは、一歩お城の外に出て初めて老・病・死の無常のことわりを目の前にして、人ごととせず、自分のこととして深く悩み、苦悩されたのでした。そして29歳のとき、夜半に王宮を抜け出し、出家をされたのでした。

出家をされたお釈迦さまは、いろいろな師を訪ねて回りましが、どれも悟りを得られる道ではないとして、6年の間、あらゆる苦行を積みました。

絶食などをして難行苦行を行い、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行いました。

しかし、一向に人生の苦を根本的に取り除く糸口が見つからないまま時が過ぎ、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解し、やがて難行苦行の道を捨てることとなりました。

お釈迦さまは6年続けた苦行を中断し、やっとの思いで近くのネーランジャー川という川で、やつれやせ細った身体を清めました。

川から上がったものの、息も絶え絶えであったお釈迦さまは、たまたま通りかかった娘によって助けられます。

その娘はスジャータという娘で、手には森の神に捧げるための乳糜(牛乳粥)を持っていました。お釈迦さまはその乳粥の布施を受け、それによって命を救われたといいます。

心身ともに回復したお釈迦さまは、近隣のガーヤ村にある森の大きな菩提樹の下で観想に入りました。

そして49日目の12月8日に、ついに悟りを開きました。このときお釈迦さまが悟った真理は、縁起の理論(苦しみを巡る因果関係)であったと伝えられています。

お釈迦さまがお悟りを開かれたことを、仏教では「成道」といい、この日には「成道会(じょうどうえ)」という法要をを厳修しています。

悟りを開いた場所であるガヤー村は、お釈迦さまの悟った場所という意味の「ブッダガヤ」と呼ばれ、今でも仏教の聖地としてたくさんの仏教徒が訪れています。

悟りを開かれたお釈迦さまは、その教えを他の人に伝えるべきかどうかを迷ったといいます。

しかし伝道を決意し、サールナートの地で5人の旧友に向かって初めて説法を行いました。これを「初転法輪」といいます。

この説法の内容は、四諦(4つの真理)と八正道(8つの実践方法)に関するものであったと伝えられています。

その後もお釈迦さまは生涯にわたって伝道の旅を続け、その名声が広まるとともに、多くの信者達ができました。

お釈迦さまは80歳の時、故郷に向かう途中のクシナガラの地でサーラの林に横たわり、入滅されました。

お釈迦さまはたくさんの弟子達に囲まれて、クシナガラの地で肉体を捨てて、完全なる涅槃寂静の世界に入ったのでした。紀元前486年(一説には紀元前386年)の2月15日のことであったといいます。

お釈迦さまは亡くなる前に、第一の弟子である阿難(アーナンダ)に、次のように伝えました。

「私は老い衰え、齢も80に達した。この身体は古い車のようにやっと動いているようなものだ。そのようなものをあてにしてはならない。アーナンダよ、汝らは、ただみずからを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理・正しい教え)を灯明とし、法をよりどころとして、他をよりどころとすることをせず、修行するものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」と説法しました。

これが「自灯明、法灯明」の教えです。わたくし亡きあとは、法という灯火によって照らされた「自ら」を依り所にし、その自らを照らす「法」を依り所とせよというお言葉です。

お釈迦さまが亡くなられた後、弟子たちは釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とをまとめ上げました。

これらが、現在、幾多の時代と国を越えて、膨大な数の経典や律典として伝えられています。

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